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静止画という娯楽が、いちばん安らかだと思う理由

最近、動画やショートコンテンツを見ていて、面白いはずなのに、どこか疲れている自分に気づくことが増えました。

情報としてはよくできているし、退屈でもない。
それでも、しばらく見続けると、楽しさより先に消耗感が残ります。

これは「動画が悪い」という話ではなく、今の表現の受け取り方そのものが、少し無理をしているのかもしれない。
そんな感覚から、この文章を書いています。

量産される表現が与える疲労

ショート動画やリール、YouTubeを眺めていると、構図、テンポ、語り口がよく似たものが続きます。

  • 同じ間
  • 同じ盛り上げ
  • 同じ感情の動かし方

どれも一定以上の完成度があり、分かりやすく面白いものばかりです。

ただ、その分、見る側は流れから降りるタイミングを失います。
考える間も、余白もなく、次の刺激へ次の刺激へと連れて行かれる。
この状態が続くと、楽しさと引き換えに、静かな疲労が溜まっていくように感じます。

説明されすぎる表現への違和感

最近は、作品そのものよりも、キャラクターや物語、強い言葉が前に出る表現も多く見かけます。
共感しやすく、消費しやすい一方で、感じる前に説明されてしまうことが増えました。

何をどう受け取ればいいかが、最初から決められている。
その親切さが、かえって窮屈に感じられることがあります。

作品を見るという行為が、物語や人格をなぞる行為に変わってしまうと、作品そのものの手触りは、少し薄くなってしまう気がします。

静止画が持つ、時間の自由さ

静止画には、まったく違う性質があります。

時間を奪わない。
見る順番や長さを決めない。
解釈を委ねてくれる。

立ち止まってもいいし、一瞬で通り過ぎてもいい。
何度見ても、同じ姿でそこに在り続ける。

疲れているときでも受け取れるのは、静止画が感情や思考を急かさないからだと思います。
静止画は、興奮させる娯楽ではなく、呼吸を整えるような娯楽です。

制作をしていて感じること

私自身、絵やイラストを制作していますが、制作中に意識しているのは「どう見せるか」よりも「どう在るか」です。

完成した作品が、説明を必要としないこと。
無理に意味づけをしなくても成立していること。

見る人が、一瞬だけ目を止めてもいいし、何度か思い出す程度でもいい。
作品が、誰かの時間を奪わず、ただ静かにそこに在る存在であればいいと考えています。

なぜ今、静止画に惹かれるのか

今は、情報も刺激も常に過剰な時代です。
多くの人が、気づかないうちに疲れています。

そんな状態で、音がない、動かない、説明されない表現に惹かれるのは、ごく自然なことのように思います。

静止画は派手ではなく、拡散力も強くありません。
けれど、その分、消耗しない。

うるさくない完成度という選択

静止画を選ぶことは、流行に逆らうことでも、懐古でもありません。

静かであること。
完成していること。

そこに、きちんと価値があると信じること。何かを強く主張しなくても、ただ在り続ける表現。
私は、そういう作品に触れているときが、いちばん安らかで、一番安定していると感じます。

Kasumi Nakatake
著者
nakatake kasumi

アートとデザインを軸に創作活動中。
感覚と実用性の両立を重視し、制作と暮らしに関わる内容を記録しています。